美短版佐竹三十六歌仙そして葉隠墓苑
「三十六歌仙」とは、歌人・藤原公任(966~1041)の『三十六人撰』に選ばれた36人の歌詠み人のことを指します。この中には飛鳥時代から平安時代に活躍した歌人が含まれており、この三十六歌仙を題材に描かれた絵巻が「佐竹本三十六歌仙絵」だそうです。この作品は、旧秋田藩主・佐竹侯爵家に伝わったことから「佐竹本」と呼ばれ、数ある三十六歌仙絵の中でも最高の名品として珍重されてきたそうです。
秋田市は、2004(平成16)年、建都400年を記念し、「佐竹本三十六歌仙絵」を平成版マンガ三十六歌仙として出版しました。また、秋田公立美術工芸短期大学(現 秋田公立美術大学)では、2005(平成17)年、開学十周年を記念し、学生さんたちによる「美短版佐竹三十六歌仙」を作成し、新屋の街角のあちこちに飾りました。
36枚あるはずの板版の「佐竹三十六歌仙」を探し歩いてみると、なかなかおもしろいものを発見することができました。もう15年が経過し、色あせ、文字も見えにくいものもあったり、そもそも建物の新築等で、なくなっている箇所もありました。
新屋の街のあちこちに掲示されています。探すのも一苦労。
「ほのぼのと あかしの浦のあさぎりに 島がくれゆく舟をしぞおもう」
柿本人麿
17番 大仲臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の歌が掲示されていたのが「葉隠墓苑」という小高い丘にある小さな墓地です。珍しい名前だなと思って寄ってみると、なかなか歴史的な意味を持つ墓地でした。この「葉隠墓苑」とは、戊辰戦争(秋田・庄内戦線)の際、秋田で亡くなった佐賀藩士らを供養しているんですね。当時秋田藩は、新政府側として東北の拠点だったわけですが、周囲の列藩同盟各藩との戦のため、同じく新政府側の佐賀藩から応援の藩士がかけつけたようです。その戦で亡くなった佐賀藩士を供養する墓地が「葉隠墓苑」というわけです。
なぜ「葉隠墓苑」?「葉隠」とは、江戸時代中期に、佐賀藩士だった山本常朝という人物の言葉を筆記したもので、藩士に向けた教育のための記録書であり、いわゆる武士道を説いた内容になっているとのことです。ここから「葉隠」の名称がついたのでしょうか。1987(昭和62)年、区画整理の際にこれら佐賀藩士の遺骨が発見され、同墓地が整理されました。またそれ以来佐賀藩士の出身地である佐賀県武雄市と秋田市との交流も続いています。
三十六歌仙を探しているうちに、こんな発見もしました。まだまだ知らないことがたくさんありそうです。
「千とせまで限れる松も今日よりは君にひかれてよろづ代や経む」
大中臣能宣(おおなかとみ の よしのぶ)
「佐竹三十六歌仙」を巡るルートはちょっと複雑で、ジョギングには向きませんが、ゆっくり散歩しながら、歌と美短の学生さんが描いた絵を見つけながら歴史を紐解くのも楽しいものです。